あったかいです!
吹く風はしっとりと柔らかで、日差しはやさしい・・・  ?春??

拙庭には蝋梅が香りを放ち、ボケが咲き出しています。
これから年の瀬を迎えようとしているとは、とても思えません。
日本の美意識を支えたうつくしい季節は、
思っている以上に危機に瀕しているのかもしれません。


先日の音羽茶会で、立派な濃い茶席をもたれた
相国寺派管長 本来無一物
有馬頼底師の筆です。「本来無一物」

とても好きな禅語のひとつです。

「本来」は、“もともと”とか“実際”

「無」は“存在しない” 
有るとか無いとかいうことではないので、執着が無いのです。

「無一」となると“一つも無い”“何も持たない”
でもそれは“何も持っていないことが、何もかも全てを持っている”こと。

「無一物」は“物という実体は何も無い”
“執着し留まらせる実体のあるものは何も無いのだから、何もかも無尽蔵にある”


全文を述べると
菩提本無樹 明鏡亦非台 
(ぼだいははもとよりじゅなし めいきょうもまただいにあらず)
本来無一物 何処惹塵埃
(ほんらいむいちもつ いずれのところにかじんあいをまねかん)

頼底さん監修の「茶席の禅語大辞典」によると
  悟りにはもともと樹はない、澄んだ鏡もまた台ではない、
  一切はもとより空無であり、一つとして固定的実体のあるものはないのだ
  何処に塵埃が積もるというのか、と言う意味。・・・とある。

ここまでいくと、咀嚼し飲み込むまで時間がかかります。
まずは「本来無一物」

もともと持っていないんだから、持っていないことに煩わされることも無い。
持っていないということは、すべてに包み込まれ持っているんだ!と思うと
空や木々、全てに愛されている気分になります。

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【2008/12/10 16:08】 | 掛軸のこと
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ちょきたら
今日も予想外に温かかったですね。
「本来無一物」・・・物欲に凝り固まった
自分が恥ずかしくなりました。


ひげ
葉摘みさん おはようございます。

無い無い尽くしのおっちゃんですが・・・無くてもいいかぁ・・・。笑)

禅語・禅境は全体でスカッと感じたいもの
たろう
>ここまでいくと、咀嚼し飲み込むまで時間がかかります

示唆に富むお話で、大変面白く読みました。

「本来無一物」だけで真意を得ようとしてはもちろんダメでしょうが。
「菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物 何処惹塵埃」までひろげても、まだ足りないでしょうね。

いずれも話の全部ではないのですから。

ご承知と思いますが、話全体のあらすじを以下に。


***

この言葉は、『六祖壇經』の中にあるもので、有名ですね。

中国禅宗・第五祖=弘忍禅師が自分の禅法の後継者を決めるために弟子に「偈」(禅境をのべる詩)を求めた際の話。

一門中の秀才とされた高弟、神秀の偈が…

「身是菩提樹 心如明鏡台 時時勤払拭 莫使惹塵埃」 

門弟たちが賞賛する一方、弘忍は沈黙。

米搗きしていた寺男の慧能が、それなら、自分も出してみるかということで神秀の偈のそばに張り出したのが…

「菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物 何処惹塵埃」

弘忍禅師は後継者に慧能を選んだ、という。

詳しくは、こちらなど…

http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/muitimotu.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A7%E8%83%BD


***


…というわけで、これらふたつの偈をあわせ読んで、全体を捉えて、はじめて、「本来無一物」という語の本来の意味するところに触れるチャンスも来ようか、と感じます。


ひるがえってみるに。
昨今の「茶」においては。
「禅語」が単独でとりあげられて。
その解釈も本来の禅機から離れて。
勝手に、都合よく、一人歩きしていることも多々あるように思います。

例えば、「喫茶去」の真意を体現する茶人は、今、どれほどいるだろうか?と自問します。

亭主がその禅機を知らず、単なる茶席の道具として、例えば季節の装飾品として、茶席の床に掛けられる墨蹟は、気の毒だなあ、と感じさせられます。

禅を「茶」の都合でもてあそぶことのないよう、茶しか見えない茶人にならぬよう、日日精進したい、と思いました。

また禅語を教条主義的に崇拝せず、スカッと生きたい、と思いました。

ありがとうございました。



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コメント
この記事へのコメント
今日も予想外に温かかったですね。
「本来無一物」・・・物欲に凝り固まった
自分が恥ずかしくなりました。
2008/12/10(Wed) 23:49 | URL  | ちょきたら #-[ 編集]
葉摘みさん おはようございます。

無い無い尽くしのおっちゃんですが・・・無くてもいいかぁ・・・。笑)
2008/12/11(Thu) 08:07 | URL  | ひげ #-[ 編集]
禅語・禅境は全体でスカッと感じたいもの
>ここまでいくと、咀嚼し飲み込むまで時間がかかります

示唆に富むお話で、大変面白く読みました。

「本来無一物」だけで真意を得ようとしてはもちろんダメでしょうが。
「菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物 何処惹塵埃」までひろげても、まだ足りないでしょうね。

いずれも話の全部ではないのですから。

ご承知と思いますが、話全体のあらすじを以下に。


***

この言葉は、『六祖壇經』の中にあるもので、有名ですね。

中国禅宗・第五祖=弘忍禅師が自分の禅法の後継者を決めるために弟子に「偈」(禅境をのべる詩)を求めた際の話。

一門中の秀才とされた高弟、神秀の偈が…

「身是菩提樹 心如明鏡台 時時勤払拭 莫使惹塵埃」 

門弟たちが賞賛する一方、弘忍は沈黙。

米搗きしていた寺男の慧能が、それなら、自分も出してみるかということで神秀の偈のそばに張り出したのが…

「菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物 何処惹塵埃」

弘忍禅師は後継者に慧能を選んだ、という。

詳しくは、こちらなど…

http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/muitimotu.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A7%E8%83%BD


***


…というわけで、これらふたつの偈をあわせ読んで、全体を捉えて、はじめて、「本来無一物」という語の本来の意味するところに触れるチャンスも来ようか、と感じます。


ひるがえってみるに。
昨今の「茶」においては。
「禅語」が単独でとりあげられて。
その解釈も本来の禅機から離れて。
勝手に、都合よく、一人歩きしていることも多々あるように思います。

例えば、「喫茶去」の真意を体現する茶人は、今、どれほどいるだろうか?と自問します。

亭主がその禅機を知らず、単なる茶席の道具として、例えば季節の装飾品として、茶席の床に掛けられる墨蹟は、気の毒だなあ、と感じさせられます。

禅を「茶」の都合でもてあそぶことのないよう、茶しか見えない茶人にならぬよう、日日精進したい、と思いました。

また禅語を教条主義的に崇拝せず、スカッと生きたい、と思いました。

ありがとうございました。

2008/12/12(Fri) 17:05 | URL  | たろう #GsbZZxQM[ 編集]
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