二十四節気・霜降の昨日、原三渓八十回忌追善茶会に行ってきました。
大師会の会員ではないのですが、ご紹介があっての参加です。
追善の茶会ってそうあるものではない。
明治の数寄者の大ファンでもあり、まして三大数寄者のひとり、
そして大師会となれば期待は大いに膨らみます。
向かう電車の窓に雨が落ちてきた。
点在するの茶席は難儀ですが、晴れ女の店主には妙な自信がある。
たとえ雨でも、室内にいるときに降って、外を歩くときには止む。
同行の方は傘を持っていないと言ってましたが、
「一緒だから大丈夫!」と大見得を切る。 (なんの根拠もありませんが・・・
茶会には何度か伺っているのですが、いつも手前にある鶴翔閣でした。
今回は三渓記念館の裏手に並ぶ茶室群が会場。
御門から奥に初めて入ります。
茶会のいいところは、普段だったら外観だけの場所にも入れるところ。
臨春閣では
五島美術館が濃茶席を持っていました。
まぁ~内部の見事だこと、美しいこと、贅沢なこと!
あの頃のお金持ちはスケールが違う。
写真中央奥深くにある月華殿と金毛窟も濃茶席。
そこは語り継がれる名茶会、原三渓の朝茶事の再現です。
浄土飯の茶会
昭和12年(1937)8月、恒例となっていた朝茶の開催直前、
長男の善一郎が45歳の若さで急死します。
誰もが茶会は中止になるであろうと思っていましたが、
初七日を過ぎた15日より、数回にわたり浄土飯の茶会が催されました。
月華殿の床には「君を望む」と書かれた惜別の一偈。
朝餉は蓮の葉を敷いた飯櫃にご飯を盛り、紅蓮の花弁で覆って出され
飯を取り分け、蓮の実を煮たものを散らし、だし汁をかけて食します。
お菜は大徳寺納豆、漬物だけのシンプルなもの。
一畳台目の金毛窟に移り、茶の床には源実朝の日課観音が掛けられ
井戸茶碗の銘は君不知。
高橋箒庵が残した茶会記を読んで、
茶を介し、言葉に載せず思いを交わし、共鳴し合う
茶事茶会とは本来こうあるものだ・・と深く感銘を受けたものです。
その時の設えを80%再現した道具組だとか。
同じ場で、ほぼ同じ設えの中に身を置き、哀悼の感を覚えました。
晩秋の今は蓮も枯れ果てていましたが、
その夏、
朝露に濡れた蓮華は、三渓の哀しみを表すようだったでしょうね。
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<茶道具のお店> <狭山茶のお店>
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追善の茶会ってそうあるものではない。
明治の数寄者の大ファンでもあり、まして三大数寄者のひとり、
そして大師会となれば期待は大いに膨らみます。
向かう電車の窓に雨が落ちてきた。
点在するの茶席は難儀ですが、晴れ女の店主には妙な自信がある。
たとえ雨でも、室内にいるときに降って、外を歩くときには止む。
同行の方は傘を持っていないと言ってましたが、
「一緒だから大丈夫!」と大見得を切る。 (なんの根拠もありませんが・・・
茶会には何度か伺っているのですが、いつも手前にある鶴翔閣でした。
今回は三渓記念館の裏手に並ぶ茶室群が会場。
御門から奥に初めて入ります。
茶会のいいところは、普段だったら外観だけの場所にも入れるところ。
臨春閣では

五島美術館が濃茶席を持っていました。
まぁ~内部の見事だこと、美しいこと、贅沢なこと!
あの頃のお金持ちはスケールが違う。
写真中央奥深くにある月華殿と金毛窟も濃茶席。
そこは語り継がれる名茶会、原三渓の朝茶事の再現です。
浄土飯の茶会
昭和12年(1937)8月、恒例となっていた朝茶の開催直前、
長男の善一郎が45歳の若さで急死します。
誰もが茶会は中止になるであろうと思っていましたが、
初七日を過ぎた15日より、数回にわたり浄土飯の茶会が催されました。
月華殿の床には「君を望む」と書かれた惜別の一偈。
朝餉は蓮の葉を敷いた飯櫃にご飯を盛り、紅蓮の花弁で覆って出され
飯を取り分け、蓮の実を煮たものを散らし、だし汁をかけて食します。
お菜は大徳寺納豆、漬物だけのシンプルなもの。
一畳台目の金毛窟に移り、茶の床には源実朝の日課観音が掛けられ
井戸茶碗の銘は君不知。
高橋箒庵が残した茶会記を読んで、
茶を介し、言葉に載せず思いを交わし、共鳴し合う
茶事茶会とは本来こうあるものだ・・と深く感銘を受けたものです。
その時の設えを80%再現した道具組だとか。
同じ場で、ほぼ同じ設えの中に身を置き、哀悼の感を覚えました。
晩秋の今は蓮も枯れ果てていましたが、
その夏、

朝露に濡れた蓮華は、三渓の哀しみを表すようだったでしょうね。
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